セッション第三節  過去生と罪業

ーーー魂と人格との関係について、お話を願いたいのですが。あなた様は複数の人格的存在が一つの魂を共有していると説明されていましたが。私には少し理解に遠い気がしているのですが。
「それは、ご自分の内面について、よく、思考なされてから、質問されるのが良いと、わたくしは思います。考えてみてください。あなた方の人格はどのように形成されて現在に至ったのでしょうか。赤ちゃんの時から現在の年齢に至るまでの人生経験だけが、今のあなた方の人格を造ったのでしょうか。理非曲直をわきまえる能力も、虐げられたものを見て、怒りを覚えたり、涙を目に浮かべたりすることができるのも、あなた方の個人的生活経験だけが全てだからでしょうか。そのことを、よく、お考えになってください」


ーーー我々、地上世界に存在する者も、心の奥底では互いに共有できているものがあるということは、わかっているつもりです。
「お気づきになられてきたでしょうけど、人とは互いに魂を共有する存在だということです。この事実に霊的世界と地上世界の違いなどはありません」


ーーー過去生における経験が魂を形成してきたという理解になるのでしょうが、過去における罪業などはどのように作用しているのでしょうか。罪滅ぼしというものがあることは知っています。
「わたくしたちも、あなた方も、共通して共有できる事実は、客観的世界に存在しながらも主観的世界で時を過ごす存在であるということです。客観的世界における過去の経験は、主観的事実として記憶されています。わかりやすく言いますと、自分の五感で経験したものが、過去の記憶であるということです。この過去の記憶は少しも鮮明さを失うことなく魂には残っているものです。これが過去生と呼ばれているものです。人が互いに魂を共有している事実は、互いの過去生を共有していることを意味しています。これは被害者の心の痛みは、その痛みを与えた加害者にも共有されるという事実につながります。それが罪滅ぼしの始まりになります」


ーーー過去生というものは、どの程度、共有されているものなのでしょうか。誰彼関係なく、全ての過去生が共有されているとは考えられないのですが。
「いいえ、それは、そう受け止めていただいて結構なのです。過去生は全人類的に共有されて然るべきものなのですから。でなければ、全人類的な進歩などはないことになります」


ーーーしかしながら、マヤ様ご自身は、ご自分の過去生についてはないようなことを、ご説明されています。
「それは誰しも地上世界での過去生における善業、罪業のいずれの経験にも、親和性のないものとは、つながることはないからです。記憶との間に親和性があるということは、そこに必要性があることを意味しています。罪人が、自分のしでかした罪の贖いをさせられるのは、過去の罪業の記憶との間に親和性があるからということになります。罪業との親和性が消えるまで、罪滅ぼしは終わることはありません。悪事は、悪魔を自らに引き寄せるが例えになるのです」


ーーースピリチュアルな本の中には、魂を互いに共有している存在のことを類魂とか、ソウルメイトなどと呼んでいるのですが。
「霊的世界においても、地上世界と同様、親和性のある者同士が、集まって過ごしています。人の魂と動物の魂との大きな違いは、人の魂には多様な個性が存在するということです。魂は個性ごとに分かれているという言い方も間違いではありませんが、わかりやすく例えれば木の太い幹から多くの枝が分かれているような姿を想像してみてください」


ーーー現世で罪を犯した者は霊界においてはどのような状況下に置かれるのでしょうか。
「罪の贖いとは自らが自らに行うということです。誰かに罰を与えられるということではないのです。償いは地上世界にいる間に機会が与えられることもありますが、そうでなければ、霊的世界に戻って、こちらでの生活で償わされます。罪が重ければ重い程、身を裂かれるような後悔の念の中に長い期間、自分の身を置かなければなりません。そこからの脱却は懺悔だけでは許されるものではないのです。善業を行えるまでに人格の向上があったと自らが感得できた時に初めて罪が許されることになります」


ーーー罪を贖うために、再び地上世界で生まれ変わるという話はよく聞くのですが。
「罪を自覚している魂が新しい人格を身に付けて、償いのために、地上世界に再生することはよくあることです。然し、それによって、それまでの人格が消えてしまうようなことはありません。親和性によって互いの人格は深い絆で繋がれています。地上世界での経験は互いに共有されることになります。苦しみは互いに同等に分かち合うことになります。魂は本来一つのものですから、そうなるわけです」


ーーー守護霊について、ご説明、お願いしたいのですが、今のお話と関連があるように思えます。
「あなた方が守護霊と呼ばれているものは、魂に内在するところの男性原理のことです。それは導きと守護の働きを司る原理のことです。地上世界に再生する魂であるところの一個の人格的存在は、等しく、その原理の恩恵にあずかります。しかしながら、その魂の不完全性ゆえに、原理の働きもそれを反映したものになります」


ーーーそれは、守護霊も失敗をしでかすことがあるということなのでしょうか。
「そうではありません。魂の不完全性は、そのまま、その分霊ともいえる人格的存在の不完全性を示すものです。地上生活における経験は魂も等しく責任を負っています。地上生活のあなた方の失敗は、魂においても同等と言えるのです。それが経験の共有です。原理の働きも、その不完全性に比例したものになります。それが摂理というものです」


ーーー我々、現世にある者が魂の守護を受けるうえで心がけるべきものがありますでしょうか。
「あなた方の魂における愛の恩恵は、あなた方があなた方の故郷であるところの霊的世界へと帰還される時まで、遍く、授けられることが霊的摂理により約束されているのです。その恩恵をどれだけ、ご自身のうちに受け入れることができるのかは、あなた方の霊的資質ともいえる人格の向上にかかっています。あなた方は、ご自分のうちに、そして、ご自分の生活のうちに、改めるべきものがあることをよくよく自覚なされる必要があります。本能の欲望にかまけたりすること、世俗的な体裁に心傾けたりすること、ご自分の身体の健康をないがしろにしてしまうことが、どんなに魂における愛の恩恵の、あなた方への通路の妨げになっていることか。わたくしにはそのことがよく見えています」


ーーー現世における罪の贖いについて、お尋ねします。死刑制度については、どのような見解を御示しいただけますでしょうか。
「あなた方の精神と肉体は、神が定められた摂理における賜物と言えるべきものなのです。それを、よくよく自覚なさってください。それをわずかであっても、そこなうようなことがあれば、それが無知からくる動機によるものであっても、罪人の扱いを逃れることはかないません。それが公権力の行いであってもです。罪人には後悔の機会を与えてあげることこそが、被害者の救済の道といえるものなのです。あなた方は辛抱というものが罪人に向き合うべき時にこそ必要であることを理解しなければなりません」


ーーー自殺のことについて、見解を御示しいただけますでしょうか。ご存知の通りであると思いますが、宗教では自殺は罪とされています。
「わたくしは自殺者たちに対しては責める思いだけを抱くようなことはありません。人は置かれた環境によっては、厳しい選択をやむなくも迫られる場合があるからです。同情の念を抱かざるおえない例も少なくないのです。人は地上世界に再生する際に、どんな艱難辛苦にも耐えられるような精神と肉体を与えられるわけではありません。肉体の機能に限界がありますように、その影響下にある精神にも自ずと限界があるからです。自らの生命を損なうことは罪ではあるのですが、その罪は、必ずしも、自殺を最終手段に選択してしまった本人だけに帰するわけではありません。そのような動機をもたせてしまった側にも厳しく問われるものなのです。償いは両者によって分けられます」


ーーー安楽死については、どう、お考えになりますでしょうか。社会環境や、個々の状況にもよるのでしょうが、殺人あるいは自殺幇助としてみなされるケースもあります。
「安楽死が自殺の手段として選択されるのであれば、罪は同様に問われてきます。例え、それが病床における苦しみを終わらせる手段として、やむなく選ばれたものであってもです。医療は苦しみだけを緩和するための手段なら手にしているわけですからなおさらのことです。死は摂理の内にあるものです。摂理は尊重されなければなりません。これが人道というものです」