セッション第四節  人生の苦しみ

ーーー人生の苦しみについて、ご教示をお願いしたいと思います。人生の苦しみの体験の中で一番辛いのは、やはり愛するものを失うこと、その中でも幼子を失うことほど悲しく、辛いことはないのではないかと思っています。それは、例え生命というものが永遠の存在であることを説明されたとしても、現実の問題として、容易には、その苦しみの解決にはならないのではないでしょうか。
「それは、ご指摘の通りだと思います。人は誰しも、ありがたい教説を説かれたとしても、それを知識として自分のものにできたとしても、少しは、慰めにはなるのでしょうけど、なかなか、得心にいたるものではありません。それは責められるべきものではありませんし、人として、ごく自然な態度だと思います。愛するものを失うことの悲しみというものは、人に与えられた徳性と言えるべきものではないでしょうか。それは何よりの愛情表現でもあるのですから。人が親になるということは、神から、その創造物である生命を預かることを意味します。それを受容し育む機会を与えられることは名誉あることでもあるのです。その機会を失うとなれば、悲しみにくれる日々を過ごさなければならなくなるのは、当然のことと思います。それは周囲の人たちに、同情だけでなく、人として生きることへの感動を与えずにはおかない行為になるかもしれません。悲しみは、時間とともに、やがて、少しずつでも癒されてくるものですが、魂に刻まれた経験というものは、決して忘れられることはありません。それは愛するものと過ごすことのできた幸せな記憶が決して忘れられることがないことを意味しています。いつの日か、必ず、あなた方の悲しみが、喜びによって埋め合わせがされる日が訪れます。人は決して見捨てられるようなことはありません。良い行いには、必ず報償が用意されているものなのです」


ーーー命短くして、この世を去った子供たちのことについてです。ある人たちは、それが運命であったからと言っております。また、ある人たちは前世の償いとして、短い命しか与えられなかったと言っております。これらのことについて、マヤ様はどのような見解を御示しいただけますでしょうか。
「ある人の話す言葉に少しでも良い意念が感じられないのであれば、それは聞き流すのが賢明です。生命の誕生とは、例え、わずか一日のものであっても祝福されるべきものなのですから。先天的な障害を持って生まれてくる子供達も少なくありません。そういう例では、あらかじめ、そのことは理解して生まれてきます。先天的な障害は身体的なものです、魂にまで障害があることはありません。その身体を選んだ目的には様々な事情があります。それは一言では説明できません。しかし、共通して言えることがあります。それは愛情を体験することにあるということです。いくら立派な言葉で愛を語ったところで、体験がなければ、何の支えにもなるわけではありません。体験こそが人生と言えるのです。魂の向上とは、それなくしてはないわけです」


ーーー天国に旅立った子供達は、どのような境遇に置かれるのでしょうか。
「早世した子供達は慈悲ある境遇へと置かれてゆきます。親達の亡き子への思いは、いつの日か必ず成就されることが約束されています。これが摂理というものです。そうは言っても、思い煩うことも、悲しむことも、何もないとは、わたくしには言えません。全ては体験して初めて分かることだからです。救済の道は自らの内にあります。悲しみの体験がきっかけとなって、内省的な生活へと向かうことができるようになれば、それが救済へとつながってゆくものです。道のりはとても長く思われることもあるかもしれません。道半ばでくじかれてしまうこともあるかもしれません。それでも、親達が見捨てられるようなことは絶対にありません。子の姿は見えなくとも、親の思いは必ず伝わるものです。子供達は、地上世界にいるのとかわることなく成長してゆきます。健やかな成長を願うのであれば、悲しみは早くお捨てになるべきです」


ーーー堕胎、中絶は殺人と同等と見なされるべきなのでしょうか。
「それらが摂理にかなう行為ではないことは、あなた方の理性に照らしても、お分かりになることではないでしょうか。母体を傷つける行為は許されるものではありません。例え、それが無知による行為の結果であってもです。償いは、その原因をつくった人たちに帰せられてきます」


ーーー日々、病苦の中で暮らすことを余儀なくされている人々に御助言いただけますでしょうか。
「お苦しみはいかほどのことかと存じます。しかし、今日のことを患うことがあっても、明日のことや、昨日のことを患うことはありません。あなた方は今を生きることに専心なさってください。それは健常な方であっても同じことです。今できることをおやりになってください。できないことは許されています。ご自分をお責めになることは何もないことを自覚なさってください。ご健闘、心より、お祈りいたします」


ーーーその人が病気になるのは、前世における、罪業を償うためだという人もいます。マヤ様ご自身は、どのような感想を持たれますでしょうか。
「わたくしには、そういうことを平然という人が、どんな知識を持って判断されているのか、理解に苦しむものがあります。人にはそれぞれ事情があるものです。それを勝手に決め付けて、これは必ず、こうに違いないというのは人としての資質が疑われる行為でしかありません。例え、苦難の多い人生であっても、過去の罪業の償いと言えるものであるかは、どなたにもわからないのです。確かな事実であることは、そうであったとしても、それは、その人の人格の向上に期待しての結果であるということです」


ーーーカルマと運命について、お尋ねします。私たち人間は生きてゆくうえで、やはり、避けがたいものがあるものなのでしょうか。
「人には誰しも生まれながらにして自由性と創造性が備えられているものです。それは人という存在が神の創造物であることの証でもあるのです。自由性と創造性は愛の原理とともに魂に内在するところの神性を表象しているものです。それはあなた方の精神的所産でもある文明社会の礎となるものでもあるのです。あなた方がその文明の恩恵にあずかりたいのであれば、その恩恵に相応しく行動なさってください。そうすれば、そのような説に迎合することが良くないことくらい、お分かりになると思います」


ーーー私たちの国では自然災害より数多くの犠牲者が出ています。人には、あらかじめ決められた寿命があるものだという人がいます。であるなら、災害の犠牲になった人たちは、そういう運命にあったということになるのでしょうか。
「人ひとりの力ではどうにもならないことはあります。しかし、災害による犠牲が、そういうものであるとは言えないはずです。いろいろ経緯があってのことなのでしょう。それは災害とは関係ないことなのではないでしょうか。結果だけ見て、あれこれ言うのはお止めになるべきです」


ーーー質問が重なるようですが、人にはそれぞれに決められた寿命が天により授けられているものであるというのは本当なのでしょうか。
「身体の寿命はあなた方のうちにあります。天から授かるという言葉の意味はそのことを示しています。それを育むのも、そこなうのも、あなた方の責任にうちにあります」


ーーースピリチュアリズムの書籍の中で霊界では地上世界の未来を見ることができると記述されています。それは事実なのでしょうか。
「未来は可能性として予見できるものです。決定論は通用するものではありません。何かの書籍を読まれる時は、常にご自分の知性と照合なさるようにしてください」