セッション第六節  戦争と平和

ーーー今、世界各地では暴力を伴った争いごとが絶えない状況が続いているように見えます。解決の道というものは、いつの日か訪れるものなのでしょうか。
「残念ながら、申し上げさせていただけることは、現在のところ、あなた方には、暴力の動機となっている憎しみや、怒りの連鎖を防ぐことができるだけの手段を手にできていないのではないかということです。暴力を手段として選び、それを実行する人たちだけを責めたり、懲らしめたりしたところで、それが最終的な解決につながるとは思えません。彼らを憎しみや怒りの感情の虜にさせしまうものとは、理性ある行動から遠ざけさせてしまうものとは、いったい、なんであるのでしょうか。わたくしは、この問いかけを、すべての人たちに向けたいと思います。答えは、あなた方のうちにあるはずです。あなた方の感情体験を思い返してみてください。人は誰しも、自分の思いが損なわれることを恐れるものです。その思いが誰かに損なわれた時に、多少であっても良くない感情を持たない人はいないのではないでしょうか。それが憎しみや怒りの感情にかわらぬようにと、あなた方は抑えることができます。しかし、ひどく損なわれた時はそうはいかないものです。もし、愛するものが命を奪われることがあれば、愛するものが辱めれることがあれば、人は忍耐強くいることなどできるものなのでしょうか。それが、暴力の連鎖を引き寄せるようなことになったとしたら、止めることが困難であることは明らかです。権力を手にしているものが、そのことを、利用して、ますます、権力を強めたり、保身に使うことをするなら許さないでください。彼らはあなた方に犠牲を強いることでしょう。暴力は正義であると唱えるものを疑ってください、彼らは、あなた方に正直ではないはずです。そういう者には何か隠し事があるものです。神を信じよと言いながら、魂の神性を侮辱する者には従わないでください。彼らは、彼らの目的のために、あなた方を、ますます、貶めます。救済は、あなた方のうちにあります。それは、あなた方の魂のうちにあるものです。わたくしの言葉は、すべて、あなた方の魂の声です。わたくしは、あなた方の魂の代弁者になれるものです。耐え難き時にこそ、耐えることが求められてくるものです。それは、もちろん、容易ならざることです。しかし、憎しみの感情にいつまでも従うわけにはまいりません。それは、少しは薄らぐかもしれませんが、あなた方の心に留まり続ける感情になるかもしれません。その時は、それに向き合い、何を為すべきで、何を為すべきでないかを、自らに問いかけてみてください。あなた方は耐えることを知ることのできる人たちです。そして、為すべきことを果たせる人たちなはずです。わたくしは、それを知っています」


ーーー侵略者に対して自衛のために戦うことは正当であると信じてます。
「武器を防具として使う限りにおいては、それは暴力ではありません。よって、あなた方の魂を汚すこともありません。犠牲者への償いを負わなければならないのは侵略を先導した者たちです。しかし、それを悪用する者たちがいますので気をつけてください」


ーーー戦争抑止を目的に国家が軍備を整えることは平和理念において問題はないのでしょうか。
「戦争抑止が、しばしば、戦争発動の口実に使われることがあります。何事も動機が問われてきます。戦争準備の利権にあずかろうとするものもいます。そいう人達は、平和を唱えながら隠し事をしているわけです。平和が損なわれる事態になっても、その犠牲には責任逃れをして終わらせようとします。そして、また繰り返そうとします。それを止めさせることができるのは、あなた方です」


ーーー将来、軍隊がなくなることはありますか。
「軍隊も人の集まる組織である以上、人として望ましい理念のもとに活動させることができます。それは、あなた方ができることです」


ーーー私たちの国には非戦を規定した憲法があります。今、それを守ろうとする人たちと、現実的でないから改正すべきであるという人たちが対立しています。
「理念は違えども目指すものは同じだという例があります。感情を超えて、互いが、寛容を示すことができるのなら、時間はかかりますが、共有できるものが見えてくるかもしれません。その行いこそが、実は、平和という言葉で象徴できるものではないのでしょうか」


ーーー聖戦の名の下に武器使用は正当化できるものであるのでしょうか。
「聖戦とは、いかなる艱難辛苦にも耐えて、神性を示すが我道なりということです。それは人道を象徴する言葉でもあるのです。何かと理由をこじつけて、武器を使いたがるものがいます。それは自分の貧弱を人の目からそらすために行います」


ーーー国家どうしの利害対立を解決するには我々としては何をなすべきなのでしょうか。有効な手立てというものがあるものなのでしょうか。
「それは、あなた方が、その事について、自らに問いかけてみることから始めてみてはいかがでしょうか。それが、あなた方の良識を養う良い機会になるものだという自覚ができるのであれば、争いごとは争いごとではなくなるはずです。国家とはあなた方の精神から生まれ出たものです。それは、あなた方が、そこに在ると思えば在り、無いと思えば無いものであるという言い方もできます。それ故、国家の実体とはあなた方御自身の精神の内にあるものと言えるわけです。その国家を良く養えるのは、あなた方御自身の資質によります。何事においても恐れや不安を取り除けるのは知性を養うの他に手立てはありません。それが良識を養うということです。もし、公権力が精神の自由性に干渉するようなことになれば、あなた方はその良識を養うことができなくなるかもしれません。でも、その代償を公権力が負うようなことにはなりません。代償の全てはあなた方が支払うことになるはずです。公権力が良くない行動にでるのであれば、それを止めさせることができるのは、あなた方の良識の他にはありません」